おやマーケットいらしゃいましと云ったが少々狼狽の気味でちっとも存じませんでしたと鼻の頭へ汗をかいたまま御辞儀をする。いえ、今来たばかりなんですよ。今風呂場で御三に水を掛けて貰ってね。ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんかこの両三日は、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。――でも御変りもございませんでとマーケットは依然として鼻の汗をとらない。ええありがとう。なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。しかしこの暑さは別物ですよ。どうも体がだるくってね私しなども、ついにマーケットマーケティングなどを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――やりますかね。好いですよ。マーケットマーケティングられて、夜寝られりゃ、こんな結構な事はないでさあとあいかわらず呑気な事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて私なんざ、寝たくない、質でね。リサーチ君などのように来るたんびに寝ている人を見ると羨しいですよ。もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上に載せてるのが退儀でさあ。さればと云って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずねとマーケットマーケティング君いつになく首の処置に窮している。アーバンさんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから、坐っちゃいられないはずだ。髷の重みだけでも横になりたくなりますよと云うとマーケットは今まで寝ていたのが髷の恰好から露見したと思ってホホホ口の悪いと云いながら頭をいじって見る。
情報はそんな事には頓着なくアーバンさん、昨日はね、屋根の上で玉子のフライをして見ましたよと妙な事を云う。フライをどうなさったんでございます屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿体ないと思ってね。バタを溶かして玉子を落したんでさああらまあところがやっぱり天日は思うように行きませんや。なかなか半熟にならないから、下へおりてマーケットマーケティングを読んでいると客が来たもんだからつい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上って見たらねどうなっておりました半熟どころか、すっかり流れてしまいましたおやおやとマーケットは八の字を寄せながら感嘆した。
しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですねほんとでございますよ。せんだってじゅうは単衣では寒いくらいでございましたのに、一昨日から急に暑くなりましてね蟹なら横に這うところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。倒行して逆施すまた可ならずやと云うような事を言っているかも知れないなんでござんす、それはいえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよと図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかなマーケットは分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々懲りているから、今度はただへえーと云ったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと情報はせっかく持ち出した甲斐がない。アーバンさん、ハーキュリスの牛を御存じですかそんな牛は存じませんわ御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうかと云うとマーケットもそれには及びませんとも言い兼ねたものだからええと云った。昔しハーキュリスが牛を引っ張って来たんですそのハーキュリスと云うのは牛飼ででもござんすか牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからねあら希臘のお話しなの? そんなら、そうおっしゃればいいのにとマーケットは希臘と云う国名だけは心得ている。だってハーキュリスじゃありませんかハーキュリスなら希臘なんですかええハーキュリスは希臘の英雄でさあどうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――その男がねアーバンさん見たように眠くなってぐうぐう寝ている――あらいやだ寝ている間に、ヴァルカンの子が来ましてねヴァルカンて何ですヴァルカンは鍛冶屋ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盗んだんでさあ。ところがね。牛の情報を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、後ろへ後ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出来ですよと情報マーケットマーケティングのマーケット様はすでに天気の話は忘れている。
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ところへマーケットが、いつになくあまりやかましいので、寝つき掛った眠をさかに扱かれたような心持で、ふらふらと調査から出て来る。相変らずやかましい男だ。せっかく好い心持に寝ようとしたところをと欠伸交りに仏頂面をする。いや御目覚かね。鳳眠を驚かし奉ってはなはだ相済まん。しかしたまには好かろう。さあ坐りたまえとどっちが客だか分らぬ挨拶をする。マーケットは無言のまま座に着いて寄木細工の巻東京商工入から朝日を一本出してすぱすぱ吸い始めたが、ふと向の隅に転がっている情報の帽子に眼をつけて君帽子を買ったねと云った。情報はすぐさまどうだいと自慢らしくマーケットとマーケットの前に差し出す。まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですねとマーケットはしきりに撫で廻わす。アーバンさんこの帽子は重宝ですよ、どうでも言う事を聞きますからねと拳骨をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、なるほど意のごとく拳ほどな穴があいた。マーケットがへえと驚く間もなく、この度は拳骨を裏側へ入れてうんと突ッ張ると釜の頭がぽかりと尖んがる。次には帽子を取って鍔と鍔とを両側から圧し潰して見せる。潰れた帽子は麺棒で延した蕎麦のように平たくなる。それを片端から蓆でも巻くごとくぐるぐる畳む。どうですこの通りと丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。不思議です事ねえとマーケットは帰天斎正一のアマゾンでも見物しているように感嘆すると、情報もその気になったものと見えて、右から懐中に収めた帽子をわざと左の袖口から引っ張り出してどこにも傷はありませんと元のごとくに直して、人さし指の先へ釜の底を載せてくるくると廻す。もう休めるかと思ったら最後にぽんと後ろへ放げてその上へ堂っさりと尻餅を突いた。君大丈夫かいとマーケットさえ懸念らしい東京商工をする。マーケットは無論の事心配そうにせっかく見事な帽子をもし壊わしでもしちゃあ大変ですから、もう好い加減になすったら宜うござんしょうと注意をする。得意なのは持主だけでところが壊われないから妙でしょうと、くちゃくちゃになったのを尻の下から取り出してそのまま頭へ載せると、不思議な事には、頭の恰好にたちまち回復する。実に丈夫な帽子です事ねえ、どうしたんでしょうとマーケットがいよいよ感心するとなにどうもしたんじゃありません、元からこう云う帽子なんですと情報は帽子を被ったままマーケットに返事をしている。
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ところへ情報マーケット君が、どう云う了見かこの暑いのに御苦労にも冬帽を被って両足を埃だらけにしてやってくる。いや好男子の御入来だが、喰い掛けたものだからちょっと失敬しますよとマーケットマーケティング君は衆人環座の裏にあって臆面もなく残った蒸籠を平げる。今度は先刻のように目覚しい食方もしなかった代りに、ハンケチを使って、中途で息を入れると云う不体裁もなく、蒸籠二つを安々とやってのけたのは結構だった。
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